2014年2月26日水曜日

永遠のゼロ

 私が「ゼロ戦」という戦闘機を始めて見たのは、いまから40年ほど前に訪れたアメリカのスミソニアン博物館に於いてでした。私は太平洋戦争勃発の年に生まれたのですが、戦争の体験といっても、B-29という爆撃機が岐阜市を襲った時に、一度母親に連れられて防空壕に逃れたのをかすかに覚えている程度で、ほとんど記憶がありません。だからゼロ戦を見ても「これがゼロ戦か、なぜ展示されているのだろう?」くらいの考えしかありませんでした。しかしその後「零戦燃ゆ」(柳田邦男、文春文庫)という小説を読み、ゼロ戦が日中戦争から太平洋戦争にかけ、まさに向かうところ敵なしの世界最高の戦闘機で、だからアメリカはその性能解明に血眼となり、アリューシャン列島近くに不時着したゼロ戦をほぼ無傷状態で回収するのに成功し、それを徹底的に調査したという話しを知り、なぜ展示されていたかの理由が分かると同時に、それがそのゼロ戦だったかも知れないと後で残念に思った次第です。小説によるとその後アメリカは戦闘員の身を守る防御設備を強化したり、被弾に強い材質の戦闘機づくりに力を入れ、その分重くなった機体は超高馬力のエンジンを開発して補い、重装備のグラマンを作ったと云います。これに対しゼロ戦は世界最速ながら小回りが利く、まさに身軽さが身上であったため被弾には弱く、戦闘員の身を守る防御設備も不十分だったのですが、しかしその圧倒的強さに慢心して後発機の開発が遅れ、しかも無線技術が劣り、またレーダーの開発に遅れを取り、それに物量差が加わってやがてゼロ戦は段々と追い詰められ、しかも技能的に極めて優秀であった数多くの戦闘員を失い、その補充が利かないなか「カミカゼ特攻」に突き進んでいったということです。
今回なぜゼロ戦の話しを持ち出したかというと、子供が置いていった本のなかに「永遠のゼロ」(百田尚樹、講談社)という小説があり、それを読んでゼロ戦戦闘員たちの過酷な生きざまを知ったからです。ゼロ戦の性能もさることながら、その戦闘員たちの技量は当時の世界最高レベルにあり、だから当初は無敵を誇ることができたわけです。しかし段々と戦況が不利になってくると、ニューギニア近くのニューブリテン島にあったラバウル基地から1,200キロほど離れたガダルカナル島まで、毎日のように攻撃に出かけたと云います。青森から博多当りまで攻撃に出かけるようなもので、これもゼロ戦の航続距離が3,000キロと、当時の世界の戦闘機の数百キロに比べ桁外れであったからできたことで、レーダーのない時代に目印のない洋上を飛んで行って戦闘し、そしてまたラバウルまで帰ってくるのですから、いかに戦闘員たちにとって過酷な作戦だったかが分かります。そしてやがて「カミカゼ特攻」に志願させられるのですが、重い爆弾を搭載するとスピードがぐんと落ち身動きが取れず、他のゼロ戦に守られての出撃となるのですが、アメリカはそれをレーダーで察知し、何十倍ものグラマンを優位な位置に待機させて待ち構えているのですから、ほとんどの特攻が「無駄死」になったと云います。それでも上層部は出撃をやめず、特にこの「カミカゼ特攻」では学徒動員させられた優秀な人材が数多く失われたと云います。戦闘員の養成には非常に多くの知識・技能を教え込む必要があり、短期間に養成するには優秀な学生をつぎ込まざるを得なかったのです。
 永遠のゼロを読んで、大勢の人間の運命を左右する政治家や、軍の指導者たちの責任の取り方について深く考えさせられました。そういう人たちには大言壮語を吐く輩が多く、部下には「国家、天皇陛下のためだ、俺も後から行く」と勇ましいことを云って厳しい命令を下しておきながら、自分たちのこととなると「不可解な撤退」をして、戦局を取り返しのつかないものにしておきながら、責任があいまいなままの指揮官が多いと云います。また、戦後、「カミカゼ特攻」で亡くなられた方々の家族、生きて帰ってきた特攻隊員たちが、「戦争犯罪人」というレッテルを張られ厳しい目を向けられたとき、果たして政治家たちが身を挺して彼らを守ったかということです。いま安倍首相の靖国神社への参拝が大きな問題になっています。「国家のために生命をささげた人たちに、尊崇の念をもって参拝する」という一国の首相の立場は分かります。しかし問題はそこで安らかに眠っている人たちの気持ちです。彼らが「靖国で会おう」といって散っていったことは事実でしょう。しかしそれは自分たちが再会するための居場所であって、選挙目当ての政治家たちに参拝してもらうための場所ではなく、彼らにとってはハタ迷惑かも知れません。「カミカゼ特攻」に選ばれた人たちの遺書、手紙、歌には勇ましいものが多いそうです。しかしそれは上官の検閲があったり、家族に迷惑がかからないようにといった配慮があってのもので、その行間にはむしろ「生きたい」という切実な気持ちがにじんでいるそうです。そうした彼らの気持ちを本当に真剣に受け止めるなら、政治家たちは参拝と同時に「我々はもっと真面目に生きるべき」ことを若者、国民に訴え、そうした社会の実現にそれこそ生命をかけるべきではないでしょうか。いまの世の中、イジメによる自殺、ストーカーによる殺人、「だれでもよかった」という通りすがりの殺傷、あまりにも生命を粗末にした事件が多すぎます。また、美食に走ってダイエットしたり、ジャンクフードで健康を損ね、それを薬やサプリメントで簡単に解消しようとする風潮、これも生命を大切にしているとは云えません。もう少し授かった生命の重みを真剣に考えるべきではないでしょうか。

2014年2月15日土曜日

スキー

 先週、2年ぶりにスキーに行ってきました。「エコの環」の野菜作りをしている人の中にスキーの好きな方がおり、「スキーに行くときは誘ってください」と以前声をかけておいたところ、誘いの声がかかり、車で1時間半ほど走ったところにある神鍋高原の「万場スキー場」まで行ってきました。私の住む地域は、神鍋以外にも鉢伏とか氷ノ山など大きなスキー場に恵まれ、冬になると身体がムズムズして血が騒ぐため、ずっとスキーを楽しんできました。さすがに60を過ぎてからは回数は減りましたが、それでもいまも年に1~2回はどこかのスキー場に出かけ、万場は3~4年ぶりでした。しかし平日(金曜日)とはいえゲレンデはガラガラで、正直びっくりしました。万場というのは神鍋の中でも非常に人気の高いゲレンデで、それこそ我々が若かりし頃(1960年代)は、朝6時前の汽車に乗り、豊岡で乗り換えて江原駅まで行き、そこでバスに乗り換えて40~50分揺られた後、そこからまたスキーを担いで30~40分かけて行ったものです。だから滑り始めるのは大体10時を回っていました。しかし当時は冬季オリンピック三冠王のトニーザイラーが主演した、「白銀は招くよ」という映画がそのテーマ曲とともに日本で大ヒットし、高度成長期とも重なって日本は超スキーブームにあり、それこそスキー場はどこもイモの子を洗う賑わいで、だから道中の苦労やリフトの長蛇の列など全く気にならず、毎日曜日、休日のほかに年休も取って、せっせとスキーに出かけたものです。1970年代になるとどこのスキー場にも駐車場が完備され、今度は駐車場探しや大渋滞に悩まされながら、万場へもよく出かけました。そして1980年代は今度は子供たちを連れ、泊りがけで出かけるようになりましたが、どこもゲレンデは拡張の一方で、リフトも2人乗りから4人掛けのものまで登場し、ゲレンデの賑わいは一向に衰えることはありませんでした。1990年代になるとさすがに仕事で足が遠のくようになりましたが、それでもたまに出かけると、いつの間にかスノーボードがゲレンデで幅を利かせるようになっており、スキーが段々とゲレンデの片隅に追いやられ、スキー人口の減少を感じてはいましたが、それにしても今回の万場の状況は、昔の大混雑を知っているだけにいささかショックでした。

今回のショックは、途中にある「名色スキー場」が営業停止にあることを知ったのがまず始まりでした。名色スキー場もかなり大きな人気スポットの一つで、子供たちを連れて何度も行ったことがあったからです。ふもとのヒッソリ閑とした雪景色は信じられない光景でした。次に驚いたのは万場の駐車場です。平日は無料なのだそうですが(これも信じられないことです)、ガラガラで20~30台しか止まっていないのです。リフト券も半日券を買う予定だったのですが、金曜日は「シニアDay」ということで、私たち高齢者は1日券をわずか2,200円で買うことができました。そしてゲレンデに出ると人影がまったく無く、たまに2~3人が滑っているのを見かける程度なのです。確かにここ数年、他のスキー場でもゲレンデがかなり空いているのを見てはいましたが、まさか万場がここまで閑散としているとは想像もしていませんでした。リフトも止まっているのがあったり、かつては10人近くが働いていたと思うリフトにも、いまは3人しか張り付いていないのです。また、ゲレンデのアチコチにあった食堂も閉じられたところが多く、昼食時に入ってもやはりガラガラで、見かけるのは高齢者ばかりで若者がいないのです。特に驚いたのは一番下のゲレンデ直下にあった宿泊設備を持った食堂で、当時は目の前のゲレンデにナイター設備があり、そこに泊まることは一種のステータス気分が味わえ、何度か泊まったことがあるのですが、そこが閉鎖になっていたのです。
 スキーの方は人影がないことをいいことに2~3本立て続けに滑り降りたところ、太ももがパンパンに張ってしまいコントロールが利かなくなり、体力には結構自信のある私も今回はへとへとに疲れてしまいました。一緒に行った人の気遣いから、結局昼食をはさんで3時間ほどで切り上げましたが、スキーでこんなに疲れたのは始めてであり、帰りに途中の温泉に寄り、ゆっくり疲れを癒して帰ってきました。費用的には温泉代も含め、スキー道具を借りた私が6,500円、連れの人は3,500円と昔に比べると半額以下で、「また行きましょう」ということになりました。
 今回の旅行でつくづく感じたのは、スキー場の有様がまさに今の日本の姿そのものになっているということでした。昔の賑わいがすっかり消えてシャッター通りが増え、高齢者だけが無料駐車、シニア券の恩恵を受けて平日にゆうゆうとスキー、温泉を楽しみ、そこには若者の姿が全く見当たらないのです。確かに私たち高齢者にとって有難いことではあるのですが、これを支えてくれている若者に何か申し訳ない気持ちが拭いきれず、やはりガラガラの温泉に2人で浸かりながら、私たち高齢者で回す「エコの環」でお返ししようと話し合ってきました。

2014年2月5日水曜日

リケジョ

 日本のリケジョ(理系の女性)が世界を驚かすスゴイ発見をしてくれました。山中教授のIPS細胞とは全く違う手法で、STAP細胞と呼ばれる万能細胞を「より安く、より早く、より安全」に作れるというから驚きです。山中教授に続く快挙に何も分からないわれわれもすっかり興奮し、私の末娘もリケジョであることから、つい心で万歳を叫んでいました(何の関係もありませんが)。山中教授がIPS細胞の開発に成功されたのは確か40歳を過ぎたばかりのころで、ずい分若いなーと思っていましたが、今度の小保方さんはまだ弱冠30歳とか。自分が30歳だったころのことを思うと、全く使命感が異なり恥ずかしくなります。それにしてもカッポウギを着て実験したり、実験室の壁をピンク色に塗り替えたり、実験器具にお気に入りの漫画キャラクターを貼ったり、スッポンを飼ったり、ずい分奔放な気がしますが、それを許している研究所や上司の方々の度量にも感心します。もっとも小保方さんは最初、STAP細胞はこれまでの万能細胞と異なり、眠っていた力を呼び覚まして自ら万能化することから、それを王子様にキスされて目覚めるお姫様になぞらえ、「P(プリンセス)細胞」と名付けようとしたようですが、さすがにそれはボツにされたとか。学校時代の友達や、先生、大学時代の恩師たちによると、とにかく頑張り屋だったということですが、それにもまして発想力がずい分他の人とは違っていたようです。テレビでどなたかが「五感が違う」と云っておられましたが、理屈の積み重ねである理系分野においても、斬新な発想にはやはり「五感」とか「感性」が非常に重要なことが分かります。その点は女性の方が理屈やメンツを重んじる男性より優れており、また、忍耐力でもずっと優れることから、今後のリケジョの活躍が大いに期待されます。

ところで今回の発見にはIPS細胞と同様、再生医療、新薬の開発などに多くの期待がかかります。それはそれで大変に喜ばしいことですが、ただ細胞を操作するということは「神の領域」に足を踏み入れることでもあります。今回の大発見に世界はただ驚いて見ているだけでなく、間違いなく猛烈な開発競争が始まるはずです。小保方さんの論文が英科学誌ネイチャーに発表された日に米メディアは、小保方さんを指導したハーバード大の教授たちの研究チームが、「すでにSTAP細胞を使って脊髄損傷をしたサルの治療を始めている」ことを伝えています。こうした競争の激化が倫理問題を置き去りにして、神の領域を冒すことにつながっていかないか非常に心配します。私も理系の人間の端くれとして思うのは、どんなに優れた薬にも副作用があるように、どんなに優れた技術にも必ず負の面があるということです。それが事前に予測できて対策が打てればよいのですが、多くはそれがごく微量の不純物の中に隠れていたり、想定外のことが起きないかぎり現れなかったり、開発段階では見逃してしまうことが多いのです。例えば福島第一原発の事故がそうです。事故が起きてはじめて「ああしておけばよかった」、「こうしておけばよかった」ということが云えるのであって、なかなか事前にはそれが分からず、あるいはそれを問題視せずに見すごし、事故が起きてはじめて負の面の重大さに気付くのです。しかし人間の技術力は想定外のことには全く無力で、泥縄式のことしかできず、解決するには天文学的なお金と多くの人の犠牲を必要とします。このように生産活動によって引き起こされる環境破壊や人的被害を「外部不経済」と呼ぶそうですが、本来はこれを内部化して生産できるようにしないかぎり経済は成り立たず、社会に甚大な不利益、不幸をもたらすだけになってしまいます。神の領域に入り込む医療活動が、今後こうしたとんでもない外部不経済をもたらす結果にならないことを願っています。