2013年11月9日土曜日

チャレンジ

なばなの里のイルミネーション
先日テレビで、桑名市のなばなの里のイルミネーションを紹介していました。今年は10回目の開催になるとかで、開場を楽しそうに待つ家族ずれや、700万個の電球を使ったイルミネーションの数々を映していました。もちろんLED電球を使ったイルミネーションで、使用電力量は大したことないのでしょうが、私はこうしたイベントを見聞きすると、いつも違和感を感じます。阪神・淡路大震災後に、被災者の鎮魂と追悼を兼ねて始められた神戸市のルミナリエはまだしも、福島第一原発事故で故郷を追われた人たちがいまだ15万人以上もおられ、風評被害に苦しんでおられる農業・漁業関係者、汚染水の流出と必死に戦っている原発作業員が大勢おられるなか、わずかとはいえ電力を使うそうしたイベントが、本当に必要なのかとつい考えてしまうからです。
 話しは飛躍しますが、オリンピックの代表選手とか野球・サッカーなどの選手が、大事な試合を前によく「試合を楽しみたい」と云います。私はこの「楽しむ」という言葉を聞くたびに、どういう心境・境地を指すのだろうとつい考えたりします。日の丸を背負ったり、多くのファンを前にしたときの緊張感は想像を絶するものがあり、私なら楽しむどころか重圧で逃げ出してしまうだろうと考えるからです。かつて阪神の掛布選手にスポーツ記者が、「大声援のなかバッターボックスに向かう心境」を聞いたことがあります。そのとき彼は「声援は全く聞こえない」と答えていました。相手ピッチャーとの真剣勝負に向かう彼にすれば、気力負けしないよう全神経を最高に研ぎ澄ました状態にあり、周りの雑音など全く聞こえないのだろうと考えられます。もしここで監督が「バッター交代」を告げたら、掛布選手はホッとするどころか怒り狂うだろうと想像されます。野球選手の彼にすれば、その猛烈な重圧のなか、逃げずに相手に向かっていく瞬間こそが最高に充実したときであり、試合をまさに楽しんでいると考えられるからです。では一般人の私たちの場合はどうなのでしょう。私たちにも常にいろんな難題・課題が重圧となって降りかかってきます。そのとき適当に妥協してその難題・課題から逃げるか、あるいはチャレンジするかの選択肢があるわけですが、長い人生から見れば成否はともかく、逃げたら後悔が残り、やはり果敢にチャレンジする方に「生きがい」があるのではないでしょうか。
 ここで話しを戻します。福島第一原発事故以来、「脱原発」の声がかなり高まってきています。それに対し、「現在の再生エネルギー技術では原発の代替は不可能で、脱原発を唱えるのは無責任だ」との声が、政府関係者・電力会社などから声高に聞かれます。しかし日本の、また世界のエネルギー問題を真面目に考えるとき、どちらが逃げて、どちらがチャレンジしようとしているのでしょうか。原発事故の前、日本には全部で54基もの原発があり(世界3位)、電力の1/3をまかなっていました。そして原発なしでは日本のエネルギー問題は立ち行かないと固く信じられていました。しかしいまその54基が全部停止し、図らずも「原発ゼロ」が実現しているのです(脱原発を宣言したドイツよりも早く)。誰がこんな事態になることを想像できたでしょう。しかも国民の協力のもとに原発なしでも夏が越せ、電力会社も黒字化を実現しているのです。いまここで原発に頼るのはものすごく楽です。しかしそれでは電力の無駄遣いは改まらず、子孫に膨大な放射性廃棄物のツケを残すだけになります。確かに「創エネ」は難しいかも知れません。しかし腹をくくれば、世界に先駆けた新しい知恵・技術が出てくるかも知れません。日本には戦後の廃墟から立ち上がり、わずか20年で東京オリンピックを開催した力があるからです。また、原発ゼロということは、夜間電力を無理して使う必要がないということであり、「省エネ」、「少エネ」の知恵なら一般の私たちにも出番はあるハズです。廃墟と化した福島第一原発・停止中の全原発を前に、チャレンジするのは「今でしょう」。

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